12月7日(木)『新垣隆×QREHA Strings』に寄せて

この記事では、12/7の演奏会に向けて、取り上げられている作品・作曲家についていくつかのエピソードをもとに紹介していきたい。

演奏会の詳細はこちら

12月7日(木)、東京都台東区にある「旧東京音楽学校奏楽堂」において『新垣隆×QREHA Strings』が開催されます。

ショスタコーヴィチ:2つのヴァイオリンとピアノのための5つの小品

9歳の時にピアノを弾き始めてすぐ、類い稀なる才能を顕したD.ショスタコーヴィチ(1906〜1975)。

一度聴いた曲はピアノで再現することができるなど、早くから非凡なる才を発揮していたという。


作曲家としての人生のうち、大部分の時期において、政治的な側面で不自由を強いられながらも作曲を続けたことでも高い名声を得、ロシアを代表する作曲家と評されることも多い。

一見、体制礼賛のようでいて、理解する人にはよく伝わる批判を忍ばせた「二枚舌」とも呼ばれる彼独自の語法は、研究者の間で高い興味を惹いている。

「5つの小品」は、ショスタコーヴィチが20代後半〜40代後半に作曲したいくつかのバレエ組曲と映画音楽からの抜粋曲集である。

ショスタコーヴィチの近しい友人でもあり、他の多くのショスタコーヴィチ作品の編曲にも携わった作曲家のレフ・アトフミャンが、2つのヴァイオリンとピアノ演奏のかたちに編曲したと言われている。

1.   プレリュード
映画音楽「馬あぶ」(1955)より。

この映画は、19世紀イタリアを舞台にイギリスの女流作家が手がけた小説がロシアで人気を博し、映画化されたものである。当時の情勢とも相俟ってこの映画が人気を呼び、1955年の公開直後からショスタコーヴィチがつけた曲も好評であったという。

16歳の時に父を亡くしたショスタコーヴィチは、家計を助けるために、無声映画にピアノ伴奏をつけるというアルバイトを始め、それが映画音楽との最初の接点になった。


2. ガヴォット
バレエ組曲第3番(1952)より。

若い頃、情熱を持ってバレエ音楽を作曲していたショスタコーヴィチだが、バレエ組曲はそれらのバレエ音楽・劇音楽・映画音楽などから自身が抜粋し、一つの組曲にしたものである。

アトフミャンはバレエ組曲自体の編纂にも携わった。


3. エレジー
バレエ組曲第3番(1952)より。


4. ワルツ
映画音楽「司祭とその下男バルダの物語(1933〜34)」より。

音楽を先に作り、それに合わせて物語詩を原作とした切り絵アニメをつけていく形で制作が進められていたが、途中で制作中止の憂き目に遭い、フィルムも多くは残っていない。ショスタコーヴィチは楽しんでこの仕事を手がけていたという。


5. ポルカ
バレエ組曲第1番(1949)より。

自身の内外に渦巻く様々なしがらみによって、交響曲の作曲に行き詰まっていた時期もあったショスタコーヴィチだが、映画音楽の制作だけは連綿と続けていた。

家族を支え、生きていくため必要に迫られていた側面があることも否めないが、作曲家として、そして一家の長としての両方の面から、映画音楽が彼の生活を支えていたという見方もできそうだ。

幸田延:ヴァイオリンソナタ第1番

幼い頃から音楽に触れ、さらに西洋音楽との出会いを機に、生涯音楽を人生の基調とすることになった幸田延(1870〜1946)。

名家の生まれで、自身の母親から長唄の手ほどきを受けたのが最初の音楽との接点であった。

クラシック音楽に関しては、唱歌の教師として招聘されたヴァイオリン奏者・メーソンとの出会いをきっかけに才能を開花させる。メーソンは当時13歳だった幸田の音楽の才能を見出し、ピアノの手ほどきを始めることとなった。

当時を振り返った幸田の手記からは、幼い頃から音楽に触れてきた自分にとって、音程をとることや譜面を読むこと、聴き取りなどは容易くできてしまったことが読み取れる。経験もさることながら、生まれつきのセンスも一級のものだったのであろう。

さらに、ゆくゆくは幸田が音楽取調掛(東京音楽学校)へ進むよう強く推したのもメーソンであった。

幸田は両親の後押しも受けて音楽取調掛(東京音楽学校)に進学し、日本最古の本格的な西洋音楽作曲家として、ピアニスト、ヴァイオリニスト、そして教育者としても多くの功績を残すこととなった幸田が、留学先のウィーン音楽院を卒業する1895年、ウィーンにて25歳の若さで作曲したのが、このヴァイオリン・ソナタである。

3楽章が再現部冒頭まで書かれたのち未完であったため、池辺晋一郎により補筆された。

第1楽章:速度指定なし・変ホ長調、第2楽章:Adagio・ト長調、第3楽章:Allegro・変ホ長調という構成になっている。

この作品は、日本でも教鞭をとっていたディートリッヒに教わりながらの習作であったとも言われているが、幸田の代表作とも言われるヴァイオリン・ソナタ第2番よりも構想された規模は大きい。

ウィーン音楽院時代の幸田は、あらゆる科目で優秀な成績をおさめ、学友にも驚かれていたという。

さて、学問において類い稀なる能力を発揮した幸田延であったが、その人間性にも目を見張るものがある。エピソードの一つとして、彼女の兄・露伴が苦しい経済状況に陥っていた際、自ら進んで自分の教員としての収入を断る兄に渡し、自分の兄がこんなところで終わる人だとは思っていない、と、将来大文豪となる露伴の将来を見通していたかのような言葉をかけたという話が残っている。

手放しで人、ひいては自分の人を見る目を信じ、寛大さと優しさを兼ね備えたこの性格は幸田延のやや特異な成長過程と環境によるものであると言えるだろうし、この性格とバイタリティあってこそ、日本における西洋音楽研究・作曲が大きく飛躍することになったと考えても差し支えないのではないか。

女性でありながら、社会的に見てもかなりの成果を生んだ幸田は、当然ながら、彼女が生きた時代は当然のように存在していた世間からの風当たりに幾度となく悩まされることもあったが、それに潰されることなく名声を確かなものにした。

それを可能にしたのは、確固たる実力と、特殊とも呼ぶべき前向きで精力的なメンタリティの相乗効果にほかならないと言っても過言ではないだろう。

さらに、幸田はウィーンの地で大書店の夫人と出会い、たいそう気に入られる。その女性から「一流のものを持ちなさい」と、アマティ(イタリアのヴァイオリンで一級品であり、非常に高価な楽器である)をプレゼントされるなどの経験ももつ。

メーソン、ディートリッヒなどの師をはじめとして、数多の大人物に目をかけられるだけの魅力をもった人であったことが窺える。

バルトーク:ピアノ五重奏曲 Sz.23

東欧に生まれ育ち、ハンガリーの農民音楽を中心とする民俗音楽の採集・研究に力を入れ、自身の作品にも積極的に要素を取り込んでいたB.バルトーク(1881〜1945)。

ピアノを始めたのは6歳の時であり、母を師として学んでいたという。わずか8歳の時に父親を亡くしているバルトークだが、その父親もまた、音楽に造詣の深い人であったらしい。

農業学校の校長として働く傍ら、ピアノ演奏や舞曲のは作曲を嗜み、自身で交響楽団を組織するなど、音楽愛好家としてかなり精力的に活動していたようだ。

父亡き後、母親の仕事の都合もあって東欧各地を移住することもあったが、バルトークが弱冠9〜10歳のときに作曲を始め、同時にピアニストとしても活動するようになったあたりから、当時一番の音楽都市にしばらく定住することになる。

その後順調に音楽活動、学業を進めたバルトークは、ブダペストの音楽院(現リスト音楽院)に進学した。音楽院時代のバルトークは、今までの作曲スタイルに疑問もち、作曲家としての活動を一時中断している。専らピアニストとして音楽院で学んでいたようだ。

このピアノ五重奏曲が作曲されたのは、バルトークが音楽院を出てまもなくのことである。これは、新しい語法を見出したことによってブランクから作曲の舞台に立ち返り、若き作曲家として華々しく社会に名を広め始めた時期にあたる。

演奏技術も抜きん出ていたため、初演の際はバルトーク自らがピアノを演奏したということだ。

若さと勉強の成果が存分に見られる作りの作品であるが、その中には既にハンガリーの舞踊曲を参考にしたであろう部分や、バルトーク最大の特徴とも言える、古典的和声の系統に基づいて模索された、斬新さのある響きの片鱗もうかがえる。


ちょうどこの時期、何かハンガリー「らしい」ものを作らなければいけないと言った風潮が湧き起こり、バルトークの民俗音楽研究に拍車がかかることとなった。

着目すべき点は、当時はほとんど手がつけられていなかった農民音楽にバルトークが興味を持ち、研究するに至ったということだ。

農民の舞踊とその音楽はどの地域にも多かれ少なかれ見られるカテゴリーであるが、これを研究して自身の作品に取り入れたバルトークの功績はとても大きい。

彼は各地を旅行しながら民俗音楽の研究を続けていたが、1918年から立て続けに起こった国内外の政治的な揺らぎによって、政治的・経済的に不安定な状況下に置かれることとなった。

旅をすることが難しくなった上、ハンガリーへは容易に近付くこともできなくなり、彼の研究活動は頓挫するしかなく、バルトークは後年、強い嘆きをもって当時のことを語っている。

バルトークが提唱する音組織の理論には、黄金比やフィボナッチ数列を用いた非常にシステマティックなものもあるが、その根本は古くからある倍音率や近親調の関係性などに基づき、機能和声の考え方にルーツを持つものである。

古典派・ロマン派音楽の典型と比較すると非常に斬新に響くバルトークの音楽だが、それは長い音楽の歴史に裏打ちされた上での新しさであり、勤勉な積み重ねと深い考察の上に成り立っているとみることができる。

解説者より

今日の日本では、演奏会を無事に執り行うことができ、創作活動にも一定の自由が保証されているが、世界のあちらこちらでは、政治・経済が揺らぐような出来事が起こり、私たちはめまぐるしく変わる世界情勢に晒されている。日本国内もその煽りを受け、どこか不安定で心波立つような日々が続いていることは確かだ。

上記で述べた作曲家たちはいずれも芸術家であると同時に、激動の時代を生き、自力ではどうにもできない苦難を乗り越えてきた多くの人間のうちのひとりである。彼らは、音楽という手法を用いて、自身の生き延び方や考えを今に伝えていると言っても良いだろう。

今回の演奏会でこれらの作曲家たちの作品を取り上げることは、穏やかでない毎日を生き抜いた先人の知恵を辿り、これからの音楽家、そして音楽を愛好する人々はどのように生きていくべきかを考える一助にもなり得るのではないだろうか。


執筆:阿部奏子